2010年08月02日
西国将軍 池田輝政という男
「池田輝政」姫路市民に限らず多くの方が一度は聞いたことがある名前である。
しかし!この池田輝政と言う人物・・・はたしてどういった人物で何故?「池田100万石」を築き上げたのか?
意外と知る人は少ないと思います。
本日のうんちくブログはこの池田輝政をブログります。
時代はさかのぼり、戦国真っ只中!輝政の父(恒興:つねおき)は織田信長の幼少の頃よりの側近中の
側近!織田家でも重要であった父は、小牧・長久手の戦いにて長男と共に戦死。
それによって池田家の家督を継いだ二男輝政であるが目立ってはいないが豊臣秀吉の合戦の大半に従軍し秀吉にたいそうかわいがられたとか・・・
秀吉の仲介で徳川家康の娘(督姫)と結婚までに至っている
時代はかわり徳川家康時代の関ヶ原では岐阜城攻めの先鋒務め軍功をあげているのである。
その功績と娘婿ということもあってか姫路52万石という領地が輝政に舞い込んでくるのである。
池田輝政の生涯を書きとめた書籍はあまり無いのだが、どうやらかなりの小柄な男であったと記されています。
■池田輝政名文句1
「われ、身短小にして勇功あり。
知る人ぞ知る。背の高さをもって尊しとせず」
小男を馬鹿にしたことを耳にしたあとで冒頭の言葉とともに舞を舞ったといわれています。
■池田輝政名文句2
大坂の陣の後で酒宴で福島正則が輝政にこう言った。
「俺は槍で大国を賜ったが、お主は大御所の婿ゆえ、一物で大国を賜ったのだ」輝政は笑って答えた。
「その通りだ、確かに俺はこの一物で52万石の大名になった、
だが、もしも槍を使っていたら天下を取っていたさ。」
これには正則も大笑いで酒宴は最後まで盛り上がったという。
武功はもちろん民を心から大事にしたとされる池田輝政であるが、あまり知られていないのが残念である
「西国将軍」として西の要として姫路城が建てられ、400年経った今も尚、世界遺産として君臨し続ける
姫路城に輝政は何を思う・・・
歴史はおもしろいですね
ナウナウ
しかし!この池田輝政と言う人物・・・はたしてどういった人物で何故?「池田100万石」を築き上げたのか?
意外と知る人は少ないと思います。
本日のうんちくブログはこの池田輝政をブログります。
時代はさかのぼり、戦国真っ只中!輝政の父(恒興:つねおき)は織田信長の幼少の頃よりの側近中の
側近!織田家でも重要であった父は、小牧・長久手の戦いにて長男と共に戦死。
それによって池田家の家督を継いだ二男輝政であるが目立ってはいないが豊臣秀吉の合戦の大半に従軍し秀吉にたいそうかわいがられたとか・・・
秀吉の仲介で徳川家康の娘(督姫)と結婚までに至っている
時代はかわり徳川家康時代の関ヶ原では岐阜城攻めの先鋒務め軍功をあげているのである。
その功績と娘婿ということもあってか姫路52万石という領地が輝政に舞い込んでくるのである。
池田輝政の生涯を書きとめた書籍はあまり無いのだが、どうやらかなりの小柄な男であったと記されています。
■池田輝政名文句1
「われ、身短小にして勇功あり。
知る人ぞ知る。背の高さをもって尊しとせず」
小男を馬鹿にしたことを耳にしたあとで冒頭の言葉とともに舞を舞ったといわれています。
■池田輝政名文句2
大坂の陣の後で酒宴で福島正則が輝政にこう言った。
「俺は槍で大国を賜ったが、お主は大御所の婿ゆえ、一物で大国を賜ったのだ」輝政は笑って答えた。
「その通りだ、確かに俺はこの一物で52万石の大名になった、
だが、もしも槍を使っていたら天下を取っていたさ。」
これには正則も大笑いで酒宴は最後まで盛り上がったという。
武功はもちろん民を心から大事にしたとされる池田輝政であるが、あまり知られていないのが残念である
「西国将軍」として西の要として姫路城が建てられ、400年経った今も尚、世界遺産として君臨し続ける
姫路城に輝政は何を思う・・・
歴史はおもしろいですね
ナウナウ
Posted by イケてるナウナウ隊 at 16:52│Comments(1)
│MASATOのつぶやき
この記事へのコメント
>小男
戦国時代の平均身長は156~7ぐらいと言われているそうです。小男呼ばわりされるという事は輝政は140後半から150前半ぐらいだったと言う事でしょうか。ちなみに伊達政宗は遺体の検証から約160cmだったそうです。
他にも、姫路城改築城の際に家臣から「地の利が良くないから他の場所を」(おそらく男山や手柄山の事を指して陣取られたり城域を見渡されてしまうため)と言われたけれど、輝政は「籠城など考えぬ。戦とは撃って出て勝敗を決するものぞ!」という様な事を言ったとか。好戦的とも無謀とも。
船場川か三左右衛門堀かを播磨灘と結んで運河を作ろうという計画もしていたとか。市川をねじ曲げて付け替えたのは秀吉でしたっけ、輝政でしたっけ。こんな感じで、現・姫路城、姫路藩の基礎を築いている輝政なのに姫路には輝政の銅像ってありませんよね?(あったらすみません)。熊本には清正像があるのに。
砂の姫路城があるんですね。でもお盆の帰省前に壊されてしまうそうで、残念・・。
戦国時代の平均身長は156~7ぐらいと言われているそうです。小男呼ばわりされるという事は輝政は140後半から150前半ぐらいだったと言う事でしょうか。ちなみに伊達政宗は遺体の検証から約160cmだったそうです。
他にも、姫路城改築城の際に家臣から「地の利が良くないから他の場所を」(おそらく男山や手柄山の事を指して陣取られたり城域を見渡されてしまうため)と言われたけれど、輝政は「籠城など考えぬ。戦とは撃って出て勝敗を決するものぞ!」という様な事を言ったとか。好戦的とも無謀とも。
船場川か三左右衛門堀かを播磨灘と結んで運河を作ろうという計画もしていたとか。市川をねじ曲げて付け替えたのは秀吉でしたっけ、輝政でしたっけ。こんな感じで、現・姫路城、姫路藩の基礎を築いている輝政なのに姫路には輝政の銅像ってありませんよね?(あったらすみません)。熊本には清正像があるのに。
砂の姫路城があるんですね。でもお盆の帰省前に壊されてしまうそうで、残念・・。
Posted by べっちょない at 2010年08月09日 21:51
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